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10/17/2012 ハイゼットバン

モノにはいろんな種類がある。使い捨てられるモノ、使い続けられるモノ、使われないまま忘れられているモノ、もう使えなくなっているのに捨てられないモノ、捨ててしまったけれど、いつまでも忘れられないモノ。


昨日、僕はボロボロの愛車ハイゼットバンを手放した。七年程前にオークションでニ万円で手に入れて、二度自分の手で車検を通しながら乗り続けた。彼に乗って僕は、撮影機材を運んだり、便利屋をやったり、葬儀屋の仕事をしたり、何度もビーチパーティを開いたり、引越しをしたり、愛犬を連れてドッグランに通ったり、彼女を乗せて夜明けの海に出掛けたりした。

しかし、残念な事に三年ほど前に、クラッチが滑り始め、スタートが難しくなってきた。やがて彼はドンキホーテのパーキングの急なスロープを登れなくなり、そしてとうとう環七のアンダーパスを登り切る事が出来なくなった。僕は彼を公道で走らせる事を諦め、廃墟の裏庭に停め、修理屋を探した。しかしどの修理屋の提示する金額も彼を手に入れた金額よりもはるかに高く、皆一様に同じ値段を出したら同じような車が買えるから修理はやめた方が良いと言った。中古パーツを探して自分でクラッチ交換をする事も考えたが、専門知識も経験もない僕には、とてもじゃないが出来る仕事とは思えなかった。

やがて車検も切れ、僕は彼を修理して動かす事をとりあえず諦め、保険を解約した。それでもナンバープレートはつけたままで、もし何かのあぶく銭が転がり込んだら、彼を修理して再び車検を通し、生き返らせる事が出来るかもしれないという淡い希望を繋いだ。しかしそんな奇跡は起こる筈もなく、やがてバッテリーが上がり、タイヤのエアーも減り始め、裏庭の土の上に長期間置かれたままになっているせいだろう、車底を覗き込むと錆が拡がってきていた。僕はついに彼を再び走らせる事を諦め、廃車の手続きをした。それでも、軽自動車協会での手続きで、一時廃車か、完全廃車かの選択を問われると、最後の希望を残して一時廃車を選んでナンバープレートを返納した。

廃車になってからも僕は彼を処分する気持ちにはなれなかった。彼は廃墟の裏庭にずっと停めらて動かぬまま、その荷台スペースを物置として利用される第二の人生を歩き始めた。僕は彼の事を「廃墟のAnnex 」と呼び、様々なモノを放り込んでは引っ張り出し、モノで溢れた廃墟のスペースを少しでも広げる事に利用してきた。

彼がまだ元気に走っている時だけではなく、もう走らなくなってからも、彼との思い出は増え続けて行った。僕は本当にどうしても処分しなければならなくなるまでは、「Annex」をそのままにしておくつもりだった。

そして、昨日がいよいよ彼とのお別れの日になった。僕は引き取りにやって来た業者さんと一緒に彼を道路まで押し出した。全ての荷物を降ろし空っぽになった彼は、意外な程軽かった。彼はレッカー車に引っ張られ、ゆっくりと角を曲がって見えなくなった。

Annex が無くなってガランとした裏庭はとても不自然に見えた。そこには三年以上の間ずっと彼が停まっていたのだ。彼の無い眺めが見慣れないのは当然の事だろう。
そんな裏庭を眺めながら、僕は彼と過ごした日々の事を思い返した。もちろん悲しかったが、それよりはむしろ、感謝の気持ちの方が大きかった。そして、できる事なら、もう少し長く一緒に走っていたかったと心から思った。そうしたら、もしかしたら、僕のこの数年の苦境も少しは違ったものになっていたかもしれない。

彼を見る事はもう二度と無い。しかし、僕は彼を決して忘れないだろう。誰にでも、あるいはどんな車でも、同じだとは思わないが、少なくとも僕にとっては、クルマというのは、そういう類のモノなのだ。

10/12/2012 妻有

随分前の話になってしまうが、夏の終わりに妻有を訪ねた。
アート・トリエンナーレ「大地の芸術祭」を観る為だ。

妻有を訪れるのは三年振り、二度目になる。三年前は二泊しかできなかったのだが、今回は約一週間滞在した。その内の半分は「小へび隊」という、いわゆるボランティアに参加した。

「大地の芸術祭」は、僕の知る他の芸術祭と比べると、随分変わった芸術祭で、何万人、何十万人という観客の訪れる、非常に規模の大きな芸術祭であるにも関わらず、その運営に関わっている人達のほとんどが、ボランティアか、もしくはスタッフと呼ばれる地元の方々である。実際に参加してみるまでは分からなかった事だが、「小ヘビ隊」はその中核となる活動を担っていた。

一日に二度のミーティングでは、運営に関わるありとあらゆる事が議論、連絡され、「小へび隊」は、積極的な参加を求められていた。「小へび隊」の活動は、まず参加者全員が宿泊する宿舎で6時に起床する事から始まる。宿舎は、かつて教員宿舎として使われていたというかなり古い建物で、ミーティングルームを兼ねた食堂、男女共に二つずつのシャワーと洗濯機、フロアごとに男女に分かれたベッドルームなどがある。部屋には二段ベッドが四台から五台置かれ、さながら海外のバックパッカー宿のようである。

起床後は6時半から食堂で朝食、さらに週に一度ほど、それぞれが分担された場所を掃除する清掃日がある。その後、各々が一日の準備をして、7時もしくは7時半の専用バスに乗り込み、メイン会場である「キナーレ」という施設に向かう。そこで8時から全体ミーティングがあり、その日の伝達事項を確認した後、「作品管理キット」と呼ばれる現場で必要と思われる全てのものが入ったバッグを渡されると、それぞれ自分を現場まで運んでくれるドライバーの車に乗り込む。(ちなみにバッグの中身は、パスポート、個別鑑賞券、ガイドブック、マップなどの販売物、お釣りセット、作品管理日報、文房具セット、救急セット、蚊取り線香、虫除けスプレー、雨合羽など、ありとあらゆるものが入っている)ドライバーは、小へび達を定員一杯まで乗せた車を運転して、各人をそれぞれ割り当てられた作品のある場所に降ろすと、ある人はそのまま自分の仕事に向かったり、自宅に戻ったりする。そういうドライバーは、地元のスタッフと呼ばれるボランティアのおじちゃんやおばちゃんである。それとは別に「小へび隊」の活動としてドライバーをしている人は、キナーレに戻り、事務所と呼ばれる場所で何らかの仕事をする。何をしているのかは僕はよく知らないが、ありとあらゆる雑多な仕事がある事は知っている。

「小へび隊」は、それから10時のオープンまでに現場で様々な準備をする。

作品によっては、2人もしくはそれ以上の「小へび隊」が割り当てられている現場もあるが、多くはたった1人でオープンからクローズまでの間に起こる全ての事に対応しなければならない。

それは「作品管理」と呼ばれていたが、要するにそこにある作品を観にやってくるお客様のパスポートにスタンプを押して作品を案内したり、ガイドブックや地図を販売したり、駐車場で車を誘導したり、また、お客様の質問に答えたり、道案内をしたりという、実に雑多な任務を全て自分の裁量でこなすという事である。

僕は東京を早朝に出発して、妻有に昼頃着いたのだが、そのまま簡単な説明を受けただけで、午後から現場に出された。「小へび隊」の人数が足りていない為に、無人でオープンしている作品が幾つもあり、すぐにでも現場に入って欲しいという事だった。

僕はドライバーに連れていかれるままに、何処だかまるで判らない山の中にあるポツンと建っているとある作品の管理をいきなり一人きりで任された。

「金色茶屋」という名のその作品は、大変魅力的で人気もあるらしく、市街地から遠く離れた山奥にあるにも関わらず沢山の観客が訪れた。昼から午後五時半までの間に、僕は70人以上のお客さんの車を駐車場に誘導したり、販売物を売ったり、尋ねられれば作品の説明や、少し離れた場所にあるトイレや、他の作品への道案内をしたりして忙しく過ごした。

閉館時間が近づきお客さんが少なくなってくると、崩れかけた古い土蔵の中を改修して創られた、その作品の中に入り掃除をしたり、壊れた箇所をチェックしたりした後、売上の計算や日報の記入などをした。

やるべき事を全部やってしまうと、後はいつ来るとも知れない迎えの車を待つだけになった。五時を過ぎた頃から辺りはだんだん暗くなってきていた。夕方以降は辺りを飛び回る蚊やブヨの数が増えて、蚊取り線香や虫除けスプレーなどは何の役にも立たなかった。僕は作品の外にテーブルを置いて、そこで半日のあいだ受付をしていたせいで、彼等の格好の餌食になっていた。そんな虫達も陽が落ちるに従って幾らか減ってきて、僕は作品の傍らの土間に腰掛けて、空が静かに暗くなって行くのをボンヤリと眺めていた。

慣れない作業に疲れていたし、随分お腹も空いていたが、それはとても平和で心安らぐ時間だった。僕はこの半日にとても満足しながら、迎えの車を待った。

陽が完全に沈むと、辺りは完全に真っ暗になった。近くにポツポツと民家もあるにはあるのだが、その灯りは僕の居る作品の所までは届いて来なかった。何の灯りもない場所に一人で座っていたのは、一体どのくらい振りだろう? 僕はそんな時間が与えられた事を有難いと思った。

どの位その場所に座っていたのか判らなくなってきた頃に、遠くから車のヘッドライトが近づいて来るのが見えた。そして予想通り、それが僕を迎えに来た車だった。

ドライバーは迎えに来るのが遅くなった事を詫び、大丈夫だったかと尋ねた。僕は、もっと遅くても良かったぐらいですよと答え、二人で笑い合った。彼は、以前この現場を担当した、とある「小へび隊」の女の子は、真っ暗な作品の脇で迎えの車を待っているのに耐えきれず、曲がりくねった山道を歩いて降りてきて、ちょうど山道の途中で迎えの車に拾われた事もあったと僕に話してくれた。そんな話を聞きながら、僕達はまた二人で大声で笑った。

10/8/2012 サンボアンガ

もう10年程前になるだろうか、フィリピンのミンダナオ島にある、サンボアンガという町を訪れた事がある。

通訳コーディネーター兼、カメラマン、雑用係という下らない仕事で行ったのだが、マニラからミンダナオ島に飛ぶ前にマニラでその話をすると、そんな危険な所に行くのは止めておけと皆一様に口を揃えて言った。
僕はそうは言っても仕事なのだし、まぁ仕方ないさと適当に受け流して、ボロボロの国内線に乗り込んだ。

サンボアンガは、マニラの人々が言うような危険な雰囲気は感じられず、他のフィリピンの田舎町と変わらない寂れた港町だった。
あえて変わった事を挙げるとすれば、マニラに比べると街並みやにスペイン統治時代の影響が色濃く残っている事や、海の向こうのボルネオに近いせいもあってか、人々の話す言葉がマニラのそれとはかなり違う様に感じられる事ぐらいだった。

サンボアンガでは、幾つかのどうでもいい案件を片付ける事の他に、70年代からミンダナオ島を拠点にフィリピン政府との間で武力闘争を続けている「MILF(モロ・イスラム開放戦線)」とコンタクトを取り、彼等との対話をカメラに収めるという目的があった。

どこの誰だか得体の知れない仲介者の案内で、僕達はMILFの幹部であるとされる人物と会う事になった。その夜遅く、僕達は案内人の運転するボ ロ車に乗せられて町を出発した。町並みを抜けると案内人は、僕達に目隠しをする様に指示した。彼等の拠点の場所を知られない為に協力して欲しいと彼は言った。僕達は仕方なくそれに従い、渡された布切れで目隠しをした。

1時間半は走っただろうか、彼は僕達にもう目隠しを外しても良いと告げた。そこは何処だかわからない真っ暗な山中だった。
山道を更に1時間以上走った所で車は止まり、そんな場所に建っているにしては、随分立派な建物の前で僕達は車を降りた。
建物の周りには、銃で武装した目つきの鋭い男達が何人も警備に当たっていた。そこにはサンボアンガの町とは全く違う緊張感が漂っていた。

僕達は建物の中に招き入れられ、幹部だと紹介された1人の男と握手を交わした。
宗教上の理由と思われるが、酒を飲まない彼等から、瓶入りのジュースが全員に振舞われた。程なくその幹部と言われる男と、僕達の代表が2人の通訳を介して対談を始めた。幹部が話す内容と、代表が引き出そうとしている浅ましい利権の話は全く噛み合わず、対話は実に不毛で意味の無いものだったが、どうでもいいと思いながらも僕はその様子をビデオに収めた。対談は30分もしない内に終わり、僕達は再び車に乗せられ山道を下り、目隠しをして町に戻った。そして俗世の汚い店で、ぬるいビールを飲んだ。

ミンダナオ島に行ったのは、それが最初で最後だったが、僕の頭にはずっとあの島の事が引っかかっていた。そこいらのフィリピンパブで女の子に片言のタガログ語でサンボアンガに行った事があると言うと、大体みんな顔をしかめて、そんな危ない所に何をしに行ったのかと尋ねた。

僕にとってはミンダナオは、普通の人々がのんびり暮らしているごく普通の田舎町で、MILOによる武力闘争が行われているのは、主に山中に於いてであり、その対象は一般人では無く、政府軍である筈だった。しかし、多くのフィリピン人のミンダナオ島に対する印象はそうではなかった。それはキリスト教徒が大多数を占めるフィリピンに於いて、イスラム教徒に対する印象があまり良いとは言えない事と、それを煽るようなプロパガンダをフィリピン政府が続けてきた事が関係するのではないかと僕は感じていた。

しかし、実際ミンダナオ島では40年以上続いているMILFの闘争で、10万人を超える死者を出し、それを大きく超える避難民がミンダナオ島を離れたとされる。その全体像が僕にわかる訳は無い。僕にわかる事は、ただ自分が見て感じた事だけだ。それさえも本当はわかってなどいないのかも知れない。真実というのはそういうものだと思う。

メディアによると、 MILFは10月7日、アキノ大統領との間で、彼等の自治政府を樹立し恒久和平を目指す事で同意した。

「大統領の任期の終わる2016年までに、ミンダナオ島のイスラム系住民が住む地域に新たに自治政府を作るための枠組みを明記した文書に、近く双方が署名する。MILFは分離独立要求を取り下げ、武装闘争を停止することになる」(以上、朝日新聞 10/8 から抜粋)

とりあえずは喜ぶべき事だと思う。
しかし、物事にはいつだってウラがある。手放しで喜べる事ではないだろうと思う。

僕はただ、あの町の人々が、自分達の知らない所で勝手に進められていく、宗教や政治や権力や利権などを巡る時代の流れに翻弄される事なく、ささやかでも幸せな暮らしを続けていけるような、そんな未来が待っていてくれれば良いと心から願う。

9/25/2012-e

ラジカセに別れを告げると、その場所で僕に出来る事は何も残っていなかった。僕はそこを立ち去り、その朝わざわざ出掛けて来た本来の目的である、元彼女の墓へと向かった。

その先の事は、ここでは書かない。その事について、僕はもう既に幾つかのTweetを書き残しているし、そうでなくても、この文章は長くなり過ぎている。

これが、ここに書くべき文章なのかどうかは、僕にはわからない。 しかし、書いてしまった事を忘れる事が出来ないのであれば、それは書き残しておけばいいのではないかと思いながら書き進めた。

その事に意味があるのかどうかは、もしかしたら、いつかわかるのかもしれない。そうであればいいと思う。
9/25/2012 -d

しかし、いつしか僕はそんなパーティを開く事もほとんど無くなり、そのラジカセは廃墟のANNEXと僕が呼ぶ、これもまた動かなくなったハイゼットの荷台で長い間埃を被る事になった。

暫くして、僕が所有する全てのカセットプレイヤーが壊れ、テープを再生する機械が何も無くなってしまった時に、僕はそのラジカセを廃墟に連れ戻した。しかし、長い間使われていなかったそのラジカセは、ダブルデッキの片方が動かなくなっていて、仕方なく僕は最後に生き残った、少し音の狂ったもう片方のデッキでカセットテープを聴くしかなかった。しかし、程なくしてそちら側のドライブも死に絶え、ラジカセは再びANNEXに放り込まれた。お金を払いさえすれば、それを処分する事も出来たが、僕にはそうする気が起きず、今日までの間、そこで置き去りにしてきた。

今朝ようやく僕は、いつか訪ねてみようと思いながら果たせなかった、あの場所に足を向ける決心をして、同時にこのラジカセに別れを告げる事にした。そうして僕は薄汚れた巨大なラジカセを持って早朝の通勤電車に乗り、人々の奇異の眼に晒されながらこの場所までやって来た。

かつてから、このビルのゴミ捨て場は、有り得ない程の無法地帯で、常にありとあらゆるゴミが無秩序に捨てられていた。その様子は今も変わっていない様で、巨大なラジカセが一台そこに捨てられていても、何の違和感もなかった。新宿区の清掃局にしたって、回収の日付は無茶苦茶であるにせよ、回収のシールが貼ってあるだけまだマシなゴミな筈だろうと思えた。

-e に続く。
9/25/2012 -c

ビルの外に出ると、僕は廃墟から運んできた馬鹿馬鹿しい程重い荷物をビルの前にあるゴミ捨て場に降ろした。

それは何時だったか覚えてはいないが、かつて同じ場所で拾ったCDラジカセだった。

何年前かのその朝方、ビルのゴミ捨て場から新宿区の粗大ごみ処理シールの貼られた巨大なCDラジカセを、僕はまだ動く筈だと踏んで廃墟に持ち帰った。予想通りラジカセのCDは使い物にならなかったが、タブルカセットプレイヤーからは、まだちゃんと音が出た。DoDeCaHorn という名の SONY 製のそのラジカセは、完全に時代遅れではあったが、僕等の世代にとっては一世を風靡した有名モデルだった。クソ重く、馬鹿デカイそのボディは、単一電池を十本だか十二本だか飲み込んで、野外でも十分に響き渡る大音量を鳴らす事の出来る、実に馬鹿馬鹿しいラジカセだった。

しかし、そのDoDeCaHorm を、僕は当時しばしば開いていたビーチや河原での Salsa Party に持ち出して、大音響で皆を踊らせる為に使った。DoDeCaHorm は、そういう場所では絶大な威力を発揮した。僕はそんなラジカセで Salsa Music を流し、仲間達はその大音響を頼りにして踊った。

-d に続く。
9/25/2012-b

新宿駅はもう沢山の人でごった返していた。僕は人混みから逃れるように西新宿の裏通りに向かった。かつて通った道をヨロヨロと歩き、再開発に取り残された猥雑な界隈を目的の場所に向けて進んだ。

そのビルは今も変わらない風情で、以前と同じ場所に辛うじて建っていた。僕はビルの前で道路に座り込み、暫くの間そのビルを眺めていた。この場所に来るのは何年振りだろう?二年?三年?もう正確には思い出す事が出来ない。当時、僕が働いていた店はもうそこには無いと、風の噂に聞いてはいた。けれどその事を僕は直接聞かされた事もなければ、確かめた事もなかった。

人はそんな風に道に座り込んで、いつまでも何かを眺めていられるものではなない。僕もそれ以上その場所に居続けるのは無意味だと感じて立ち上がった。そして少し迷いはしたが、ビルの階段を上がり、かつてその店があった場所を見に行く事にした。ビルの中は相変わらず荒れ果てていて、二階と三階の廊下にあるトイレは「故障につき使用禁止」の張り紙が貼られ、ドアは開けられない様に板切れと釘で打ち付けられていた。

三階にあったその店のドアには、かつてと同じ看板が掛けられたままだった。当時と何も変わった所はなく、今もまだそこで営業をしていると言われたら、そうなのかもしれないと思える程だった。何れにしてもそれを確かめる術はなく、僕はただ再び階段を降りるしかなかった。

-c に続く。
9/25/2012-a

*この文章は、iPhoneの操作ミスで一度全てが消えてしまった為に、いま改めて最初から書き直している。その為、文章中の日付等は、2日前のものである。

昨日も午後から急に降り出した雨に出鼻を挫かれ、結局出掛ける事が出来なかった。一日中ずっと廃墟に篭り、終わりの見えない作業を続け、前の晩に作りすぎたパスタを朝昼晩と食べ続けた。(実際は作りすぎたのではなく、大量に余っているストックを消費しようと大鍋に一杯のパスタを茹でたのだが)

僕は美味しいものを食べるのも大好きだが、お世辞にも美味いとは言えない食事を何日も食べ続ける事にも比較的耐えられる方だと思っている。それでもやっぱり殆ど味の無いパスタを二日間食べ続けるには、アルコールの力が必要だった。そんな訳で、僕は結果的に二日間で四本半のワインも消費する事になった。

飲み過ぎたワインでエンジンが掛かったせいもあり、僕は一晩中、更に Rum を飲みながら作業を続けた。雨は時折強く降り、窓ガラスが派手な音を立てていた。しかしその雨も朝方には止み、陰気な夜が静かに明けた。僕はそのまま眠らずに出掛ける事に決め、朝のラッシュを避けて始発過ぎの早い電車に乗る為に、準備をして廃墟を出た。

そんな時間帯でも電車はかなり混み合っていて、座る事は出来なかった。殆どの乗客はそれぞれの仕事に向かう途中で、そこに紛れ込んだ明らかに匂いの違う怪しげな風貌の中年男に対しても、一瞬だけ視線を向けるだけで、すぐに携帯電話に目を落とすか、そのまま眼を閉じて束の間の眠りに戻って行った。 それは僕にとって最も疎外感を感じる時間と場所のひとつだったが、僕は酔いの力を借りて何も考えない様に努め、自分もスマートフォンに集中してこの文章を書き続けた。

-bへ続く。
9/12/2012

今朝早くから、妻有への旅に出掛ける為に、僕は昨夜から徹夜で準備に追われていた。どうにか始発バスに乗り込んで、いま集合場所に向かっている。

11年前のこの日も、僕は夜を徹して電話とパソコンとTVに齧りついていた。その夜僕は、TVのニュースを背中で聞きながら、パソコンに向かっていた。突然アナウンサーが速報で、World Trade Center から煙が出ていると伝えた。僕は振り向いて画面を見た。ビルの上層階から黒煙が上がるのを見て、とても嫌な予感がした。TVでは、まだ何も確かな情報がなく、事故なのか事件なのかもわからないと伝えていた。僕にはその映像を見る限り、とても事故とは思えなかった。NY時間では9/11の朝、後に同時多発テロと名付けられる悲劇の始まりだった。

一体何が起こっているのかを考えながら画面を見続けると、新しい映像には、もうひとつのビルからも煙が上がっている様子が映し出された。TVはまだ何も確かな情報を伝えていなかったが、僕はこれはテロだと確信した。母にTVを見続けるように言い、これはテロだと伝えると、母の顔色が変わった。

当時、僕の弟はNYに住んでいた。僕自身もNYから帰国して2年が過ぎたところで、当時も沢山の友人達があの町で暮らしていた。僕は彼等の無事を確かめる為に、連絡を取り始めた。まず弟に電話をしたがなかなか繋がらない。他の友人達の番号も同じだった。

僕は電話を諦めてインターネットを接続した。当時はまだモデムを使ったダイアルアップの接続で、電話と同時に使う事が出来なかった。日本にはブロードバンドなんてものは殆ど無かった時代だ。

ネット回線はほぼ問題なく繋がった。僕は当時NY近辺に住んでいた全ての友人、知人に安否を問うメールを出した。それが終わると再び電話をかけようと試みたが、相変わらず繋がらないままだった。あとはネットを接続してメールの返信をチェックしては、電話回線を切断して電話をかけるという繰り返しだった。

その間にもTVのニュースは、崩落するWTCの映像を映し出し、ペンタゴンでの旅客機の自爆テロ、またもう1機の旅客機の墜落についても伝えていた。相変わらず情報は錯綜していて、何が起こっているのか全体像は分からないままだった。僕は状況をどう捉えれば良いのか判らず、ただ愕然とするしかなかった。

僕が何とかして連絡を取ろうとしている中、深夜近くに父が帰宅した。
父は弟とまだ連絡が取れない事を知ると、少し動揺したようだった。僕は父と母に、電話が繋がらないので連絡が取れないだけで、きっと無事だと思う。自分は引き続き連絡を取ってみるので、2人には休んで欲しいと言った。彼等は自分達にできる事は何も無い事を理解して素直に従った。

少しずつ、メールの返信が返り始めた。彼等も混乱していて、伝えてくる情報も様々だったが、とにかく無事である事、電話は殆ど繋がらない事、そして何より他の友人の安否を知らないかと尋ねていた。

深夜遅くなると、僕にできる事は、TVやAFN、インターネットでニュースを追い続ける事と、時々メールと電話をチェックする事ぐらいしか無かった。

朝方になって、何故そんな事をしようと思ったのか良く解らないが、僕はニュースを聞きながら、もう10年以上も連絡を取って居ない従姉にメールを書き始めた。大手予備校で講師をしている彼女はアメリカでの留学経験もあり、恐らく今回の事件を重く受け止めているだろうと思ったのかもしれない。僕は、僕の混乱と不安、そしてその夜をどの様にして過ごしているかを思いつくままに書いて送った。1時間もしないうちに返信があった。やはり彼女も眠っていなかったのだ。

彼女からのメールの件名は、
「明けない夜はない」だった。そして、僕の動揺は当然であること、彼女も同じ様に動揺していること。しかし、そんな時だからこそ、現実をしっかりと見つめて、自分を強く保つ事が必要であること。などが書かれていた。そして、明けない夜はないのだからと繰り返し、最後に弟の安否を気遣い、連絡が取れたら知らせて欲しいと書かれていた。

彼女の言うとおり、確かにその夜も間違いなく明けた。弟の方から電話がかかってきたのは、父が出勤する前だった。その頃にはほぼ全ての友人の安否が確認できていた。幸い僕の知る人間で被害にあった者は1人もいなかった。

僕は相変わらず錯綜する情報を繰り返し流しつづけるTVを消し、少し眠る事にした。起きる頃には、情報も少しは整理されてくるだろう。そして僕は自分はこれをどう捉えるのかを考えよう。そう思ってベッドに入った。

しかし、目を覚ましてニュースを見ると、伝えられているのはあまりにも悲惨な現状だった。僕には現実をしっかりと見つめて理解することも、自分を強く保ち何をすべきかを考える事も出来なかった。従姉の言う様に、確かに夜は明ける。でも朝の光の中で僕は無力に立ちすくむだけだった。

その後、アメリカは、終わりの見えない彼等のいうところの「テロとの戦争」に突入して行く。その様を見ながら、僕は相変わらずただ立ちすくむだけだ。

11年たった今でも、僕は変わらず混乱し、動揺し、困惑し、そして何も出来ないでいる。
いつか僕の夜が明ける日は来るのだろうか。そうあって欲しいと心から思う。

あの日亡くなった多くの人々と、
その後の戦争で亡くなったさらに多くの人々の冥福を祈って、
相応しいのかどうかは判らないが、今日、この文章を捧げたい。

9/5/2012

Memolaneから、二年前の今日のTweetが届いた。

「久しぶりに池袋の北口地下道を歩いた。 こんな日に限って彼が演奏していた。こんな日じゃなかったら、無駄話のひとつもして、あの曲を聞かせてもらって、その報告がてらに、ご無沙汰してる友達の働いてる店に顔をだすところなのに。。 こんな日じゃなければ。。」

彼のデモCDは、当時働いていた店に置いてきてしまって手元にはない。西新宿の良い感じに寂れた雑居ビルにあったその店も今はもう無い。

いろんなものが無くなっていく。それは多分仕方のない事なのだろう。それに慣れていかなければ、きっと生きてなど行けないのだ。

そう自分に言い聞かせながら、それでもうまく慣れずに転げるように日々を生きている。